特別編 夏の一日

 ジリジリと、夏の日差しが照らしている。
 町外れの、丘の上の一軒家。その傍らに立つ榎木の木陰、いつものようにデュンクと純はそこにいた。
 二人の手には本。ともに活字の並んだ文庫本だ。
 今までデュンクは、ほとんどと言って良いほど本を読まなかった。彼の姉しろがねも、彼が働いている養豚場の経営者くろがねもよく本を読む。
そんな中、彼は本に興味を抱かなかった。本を読むことよりも、実際に体を動かして働くことが楽しかった。
そして、いつの間にか本が嫌いになっていた。
それを純に言うと、彼女は何も言わなかったが、どこかさびしそうに笑った。彼女のそんな表情は見たくないと思い、彼女にそんな表情をさせたのが自分だと気付いたとき、デュンクは自然と本を手に取っていた。
「ふう」
 読み終えた本を閉じ、デュンクは息を吐く。それに気付いた純も、本から顔を上げる。
「どうでしたか?」
「うん、結構面白かった」
 一度閉じたページをパラパラとめくり、ある一ページを開く。
「『今感じる不安も、これから訪れるだろう希望も、全ては俺が自分で感じるもの。誰に強制されたものでもない』この台詞、好きだな」
 純はくすり、と笑う。
「ふふっ・・・デュンクらしいです」
 冷たい飲み物でも、と言って純は母屋へ向かった。
 木陰のため、炎天下よりははるかに過ごし易いが、それでも暑い。
 ふと、デュンクは思い出す。この暑さだからこそ、楽しめる場所を。
 木陰に戻ってきた純から、氷を浮かべたアイスティーを受け取りつつ、尋ねる。
「明日とか、暇?」
「明日は両親の仕事が休みですから・・・一日空いてますけれど」
 よし、とデュンクは小さくうなずき、純は不思議そうに小首を傾げる。
「朝から、ちょっと出かけよう。動きやすい服装がいい」
「じゃあ、お弁当でも作りましょうか。この暑さですから、悪くなりにくいものじゃないといけませんけど」
 まだ行き先も言っていないのに、純は今にも明日の準備に取り掛かりそうな勢いである。
デュンクは苦笑しつつ
「まだどこ行くか言ってないぜ?」
「大丈夫です。デュンクが連れて行ってくれるところなら、悪いところじゃないです」
 純は無邪気な微笑みで答える。自分が信用されていることを嬉しく思いつつも、照れくさい。
「行き先がわからない方が、わくわくします」
 もう明日のことで頭がいっぱいな純、その一方でデュンクは、彼女の期待に応えられるかどうか、一抹の不安を感じずにはいられなかった。

 ほとんど眠れないまま朝を迎え、デュンクは合流場所である街の噴水の前に赴いた。
 約束の時間は8時で、今はまだ7時半だというのに、純はそこにいた。
 動きやすい服装ということで、パーカーにショートパンツ。示し合わせたわけでもないのに、デュンクと同じような服装である。
「あー・・・早いな」
「そちらこそ」
 二人は意味もなく笑い合う。
「じゃ、行くか」
「はい」
 並んで歩き出す二人。すぐに、純の持っている小型のクーラーボックスが目に留まる。
「何作ってきたの?」
「それを言ったら、楽しみがなくなっちゃいますよ」
「ははっ、それもそうだな」
 デュンクが持とうか、と手を差し出すと、純はありがとうございます、と言ってクーラーボックスを手渡す。デュンクの荷物は腰に吊るした効果器だけなので、片手は空いている。
「んー・・・」
 空いた手を一度見て、純はにっこりと微笑む。
「手、つないでもいいですか?」
「ん、いいよ」
 デュンクの左手に、純の小さな手がつながれる。
「デュンクの手、硬いんですね」
 豚舎の掃除でスコップを握るため、デュンクの手には、それぞれの指の付け根にタコがある。
「手握ったの、初めてか」
「そういえばそうですね」
 しばし二人は無言。だが、苦痛な沈黙ではない。
 街を通り抜け、港へ出る。しかし、目的地は港ではない。
 港を通り過ぎて海沿いの細い道へ。その先は、山に続いている。
「行き先は山なんですか?」
「まあ、着いてからのお楽しみ」
 そう言っている間にも、道は車一台がやっと通れるほどになり、舗装もなくなった。
 無言で歩き続ける。
 周囲の木々が濃くなり始め、道も木漏れ日に覆われてきた。坂も、だんだんと急になってくる。
周囲を包むひんやりとした空気は、山のもの。歩き続けて火照ってきた体に心地よい。
曲がりくねった山道が、ふと二つに分かれる。一方は山の頂上へ向かう上り坂。もう一方はどこに向かうものか、下り坂である。
「こっちだ」
 デュンクは下っている方の道を選ぶ。
「もう少しで着くから」
「はい」
 純の顔に、歩き疲れの表情が浮かんできたように感じ、かすかに焦る。
 5分も坂を下ると、不意に視界が開ける。
 一面に広がるのは、海の青。そして手前には砂浜の白。
「わ・・・」
 純が声を上げかけて、止まる。普段見るのとは違う海の青さに見入っているのだ。
「この砂浜は、山歩かなきゃ来れないから、あんまり知られてないんだ。遊ぶなら港側の砂浜に行く方が近いから」
 デュンクは額に浮かんだ汗を拭いながら言う。純の様子を見る限り、この場所が彼女を落胆させるようなことはなかったらしい。
「でも、どうしてデュンクはこの場所を?」
「くろがねの兄貴に連れてこられたんだ。バイクの後ろに乗せられて」
 正直、その帰りのことは思い出したくない。帰り道の、舗装されていない下り坂での狂気のライディングは彼の中で一つのトラウマとなっている。
「素敵な場所です」
 デュンクはその言葉に、表情には表さずに安堵。
 いつの間にか、純は靴を脱いで裸足になっている。
「もう遊ぶ気満々だな」
「海に来るって言ってくれれば、水着持ってきたんですけどね」
 デュンクも木陰に荷物を置いて裸足になる。
 島の北西側のため、水は思った以上に冷たい。水着を持ってきたところで、泳ぐのは少々無茶だろう。
 寄せてくる波を受けつつ、膝まで水に入る。と、顔に真横からの水の一撃。
見れば、純が腰をかがめて水に両手をつけた姿勢で、してやったり、と言った表情を浮かべている。
「・・・・・・やったな」
 直ちにデュンクも反撃開始。純と自分の手の大きさを考えて、やや手加減気味に。
「きゃ、冷たーい・・・もう、手加減しませんよ」
 純は自分が濡れるのも構わず両手で水をすくって攻撃をしてくる。
 最初こそ手加減していたデュンクだが、終いにはお互い本気で水の掛け合いになっていた。

 頭から足の先までずぶ濡れになった二人は、木陰の岩場に座り込んで休憩することにした。少々早めだが、弁当を食べることにする。
「あまり手の込んだものは作れないんですけど」
 クーラーボックスの中身は、カツサンドに冷製パスタ、ナスの揚げ漬しと、統一性があまりない。それでも、見た目には食欲を刺激する。
「いやいや、これだけ作れるなら十分だって。頂きます」
 まずはナスの揚げ漬し。ナス自体は家で毎日のように食べてはいるが、かなり好きな野菜なので飽きはしない。
「ん、うまいよ」
 その一言で、それまでじっとデュンクの表情を見つめていた純の表情がほころぶ。
「よかったー・・・。口に合わなかったらどうしようかと思ってました」
「大丈夫だって」
 デュンクがカツサンドにも手を伸ばしたのを見て、純も食べ始める。
「ん、このカツいい肉使ってるな」
「さすがですね」
 デュンクは終始うまいうまい、と言い、そのたびに純は嬉しそうに笑った。

 食休みの後、二人は周囲を散策することにした。服はまだ生乾きだが、不思議と不快ではない。
 砂浜が途切れ、岩場に変わる。そこに、不思議なものがあった。
 満潮時には海水に浸かるであろう場所に、一本の木が生えているのだ。幹は大人二人でなんとか抱えられるほど。高さは10mを超えている。かなり長い間ここに生えているらしい。
「不思議な木ですね」
「うん、兄貴も何ていう木か知らないって言ってた」
 根は岩の隙間を這い、あるいは岩に深く突き刺さっている。岩場にも関わらず、しっかり根を張っている。
「ちょっと、登ってみるか」
 張り出した根と枝にそれぞれ足と手をかけ、ぐっと体を持ち上げる。翼を使えば簡単に登れるが、それでは木登りの意味がない。
「登れるか?」
 しっかりとした太い枝まで登り、下に手を伸ばす。その手を取って、純もデュンクのいる枝まで。
 デュンクが先に上り、純が後からついていく形でしばらく登る。
「結構高いですね」
「ああ、半分以上は登ったかな」
枝と木の葉の間から見えるのは、海の藍と空の蒼。二人は言葉を忘れ、しばしその二色の青に見入る。
「きれいです」
「そうだな」
 純はデュンクの手を握り、微笑む。
「こんな素敵なところに連れてきてくれて、ありがとうございます」
「気に入ってもらえてよかった」
 デュンクも自然と微笑みを浮かべていた。
「また、一緒に来たいです」
「うん、そうだな」
 二人は再び海と空に眼を向ける。
 海の青と空の青、その二つは明らかに違うものだが、その境目は溶け合い、一つにつながっている。


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