第一話 銀狐

 銀天(ズィルバーエンゲル)−しろがねは急いでいた。早く見つけねば。気ばかりが急いて翼をうまく動かせない。
「姉貴!」
 不意に背後から少年の声。振り向くまでもなく、弟の暗天(デュンケルエンゲル)−デュンクとわかる。
「俺は兄貴と町中、東の森はシズカが探す。姉貴は南に行ってくれ」
 デュンクはそれだけ言うと急降下して町へ降りる。その四枚の翼があまりにも頼もしく、しろがねの口元には自然と微笑みがこぼれる。
(初めて飛んだときにはあんなに怖がっていたのに・・・)
 幼いころのデュンクの姿が思い出される。がしかし、今はそれどころではない。三枚の翼を大きく一羽ばたきして気合を入れる。黒い髪と空が後ろに流れていく。
「今はあの娘を見つけるのが先・・・」
 つぶやくしろがねの眼下には鬱蒼とした森が広がり始めていた。

 島唯一の学校で教師をしている三対の翼をもつ神天族、蒼天(ブラウエンゲル)が彼女の家を訪ねて来たのは、今から三十分前のことだった。彼の用件は『逃げ出した生徒を探すのを手伝ってほしい』。
 ブラウはしろがねの友人の一人である。当然二つ返事で了承した。
 ブラウは一枚の写真を取り出し、しろがねに見せた。濃いオレンジ色の髪に少々眠そうに開かれた蒼い瞳。神狐族(しんこぞく)特有の形をもちながらも、標準的な毛色(全体は金色、先端のみ白色)ではなく、銀色の毛に覆われた耳。それは、見覚えのある顔だった。
「名前は銀狐(ズィルバーフクス)。皆は「ぎん」と呼んでいる」
「知ってるわ。昔はよく遊びに来てたから」
 ブラウはわずかに驚いたような表情を見せるが、すぐに説明を続ける。
「見た目には俺たちと変わらないが、精神的には十歳程度。神狐族は肉体の成長が極端に早い。それが今回の事件の原因になった」
 ブラウが語ったのは次のようなことだった。
 体育の時間、クラスを4チームに分けてサッカーのミニゲームをしていた。精神的には子供でも、肉体的には大人と大差なく、その上身体能力に優れた神狐族であるぎんは、一人で十点以上の得点を収めた。
 勿論ぎんに悪意はない。悪意どころか純粋にサッカーを楽しんでいただけだ。しかし子供たちにそんな気持ちは伝わらない。いや、むしろ大人でも反感を覚えるものもいるだろう。
 子どもは時に、集団内の異質なものを激しく排除しようとすることがある。このとき、彼らの言葉による攻撃は、ぎんの身体的成長の早さに対する不気味さと妬み、さらには両親が死亡していることにまで及んだ。
 言葉による激し暴力を受けたぎんは、その場を逃げ出した。この数年で急激に肉体の成長をとげたため、これまでにはなかった経験だったのだ。
「知ってるかもしれないが、彼女は三年前両親を亡くした。その所為か、他人に心を開こうとはしないんだ。休み時間も一人きり。しかもこの騒動だ・・・。教師ってのは思ってた以上に無力だよ」
 そういってブラウは蒼い翼を震わせた。

 しろがねは南の森上空に辿り着いた。この全島の四分の一を占める、最も大きな森だ。この中に入って探すのは、一人では絶対に不可能だ。かといって大人数で森に分け入ればぎんは警戒して姿を隠すだろう。
 しろがねは腰に差していた大型ナイフを抜き、ネジになっている柄で、背負っていた1mほどの、増加電池を兼ねた長柄二本と接続する。
 空間固定式非限定効果矛『啓示』。それがこの『効果器』の名だ。
 しろがねの口から、鈴虫が翅を擦り合わせるような音が漏れる。効果器を使う際に命令を伝える圧縮言語だ。
 意識を効果器と接続し、効果範囲とする南の森全体をイメージする。
『固定空間限定・・・範囲認識。効果、全視覚』
 微かに矛が唸りを上げ、微細な振動が生まれる。同時に範囲指定された空間内の、視覚に捉えられる全情報がしろがねの脳に流れ込んでくる。つまり、森内部の光景全てが目の前にあるかのように認識できるのだ。このときの感覚は、言葉で説明することはまず不可能である。
 森の中には様々な生き物がいる。猪・狐・猿・兎・鼠など比較的大きなものから、蜥蜴や蛙、虫など小さなものまで含めれば膨大な数になる。しかし、その中で人間は、極めて大きな生き物なのだ。このとき森の中にいる人間は三人。そのうち二人は、林業を営む黒熊(シュバルツベーア)・蒼熊(ブラウベーア)兄弟だった。残る一人がぎん。
 神狐族はすべての感覚器官が多種族より優れている。ならば、ぎんの真上まで近付いても同じことではあるのだが、敢えて少し離れた場所に下りて、歩いて近付くことにした。これは空を飛べないぎんに対する礼儀のつもりである。
 ぎんはすぐに見つかった。森の中に少し開けた場所があり、そこには朽ちかけた丸太小屋が建っていた。その崩れかかった柱にもたれかかり、膝を抱えてぎんは座っていた。
 この家は彼女の生家である。しかし三年前両親を事故で亡くし、町に住む遠縁の親戚に引き取られた。
 彼女は眠っていた。空腹のあまり眠気に襲われたのだろう。彼女ら神狐族は、急激に成長した肉体を維持するため、常人より多くの食物を必要とする。しろがねが急いでいた理由はそれだったのだ。
「起きて」
 肩を揺らすとぎんはうっすらと瞼を開く。
「きゅぅ?」
 鳴き声のような声を出し、首を傾げる。寝起きで状況が判断できないのだろう。
 しろがねは肩にかけていたバッグから紙袋を出し、その中身をぎんの鼻先に近づけた。ぎんは一瞬目を丸くすると、ひったくるようにしてその肉まんを受け取り、凄まじい勢いで食べ始めた。
「随分お腹が空いていたのね。誰もとらないから、ゆっくり食べて大丈夫よ」
 この肉まんはしろがねが育てた野菜と、友人の鉄狼(アイゼンヴォルフ)−くろがねが飼育した豚が原料だ。調理もしろがねの手によるもので、味はプロの作ったものに引けを取らない。
 しろがねが持って来た肉まん五個全てを平らげ、ぎんは満足げに吐息をもらす。
「ごちそうさま・・・」
 ぎんが俯きながら小声で言った。しろがねはにっこりと微笑む。
「ご満足頂けて何よりです」
 しろがねは立ち上がると、座ったままのぎんに手を差し出す。
「さ、帰ろ。ぎん」
 ぎんはその言葉に力なく首を振る。
「帰ったらまたいじめられる。ぎんを待ってる人なんていない・・・」
 ぎんの目尻には涙が滲んでいる。しろがねはそっとその涙を拭ってやる。
「ブラウ先生は心配してるよ。今もあなたの帰りを待ってる」
 ぎんは再び膝に顔を埋め、嗚咽を漏らす。
「お父さん・・・お母さん・・・」
 しろがねは胸を針でちくちくと刺すような痛みを感じた。彼女も親を失っている。親との記憶よりも、弟であるデュンクと過ごした記憶のほうが長い。しかしぎんの場合、三年前に親を亡くしたばかりだ。心の傷は深い。
 しろがねはぎんを抱きしめずにはいられなかった。
「お父さんとお母さんの代わりにはならないかもしれないけど、私でよければ一緒にいるから・・・待ってる人がいないなんて悲しい事言わないで」
 ぎんは不思議そうにしろがねの顔を見上げる。しかしすぐにしろがねの体を抱きしめ返してくる。
「きゅぅ・・・しろがね、お母さんの匂いがする・・・」
 ぎんは甘えるように頬を摺り寄せる。しろがねはぎんのオレンジ色の髪を優しく撫でる。
「ぎんさえよければ、一緒に暮らそう。昔はよくデュンクとも一緒に遊んだでしょ? 私たちは、ぎんが来てくれたら嬉しいよ」
 それは、ぎんが親戚に引き取られ、しろがねの家を訪れることがなくなったときから考えていたことだ。噂で、ぎんは新しい家族とうまくいってないと聞いたことも推進剤となった。
 しろがねは手櫛でぎんの柔らかな髪を梳くように撫でる。ぎんは気持ちよさそうに「きゅぅ」と鳴いた。
「どう?」
「・・・いいの?」
 しろがねは全てを受け入れるように優しく微笑んだ。
「もちろん」
 ぎんはやや躊躇いがちに、小さく肯いた。
「じゃあ、帰ろう。私たちの家へ」
 二人は手をつないで歩き出した。優しかった過去を背に、自分たちの足で。




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