第四話 翼の兄弟

 穏やかな午後の日差しが窓から差し込む職員室。
 授業から解放され、校庭でサッカーをする子供たちの明るい声が聞こえている。
 ブラウは、今日の授業で行った小テストの採点を終え、軽く肩と首を回した。
 茶でも淹れようかと思っていたところに、差し出される愛用の湯飲み。濃い目の緑茶が湯気を立てている。
「ああ、ありがとうございます。ちょうどお茶がほしかったところなんです」
「どーいたしましてー」
 お茶を差し出した主、シズカはニッ、と笑う。口の端から鋭い犬歯が見えた。
「・・・何か、企んでますね?」
「ひどいなー。善意でお茶淹れてあげたのに」
 ぶーぶーと文句を垂れる静虎天は無視し、ブラウは茶を一啜り。
「ねぇ、ブラウ」
 声をかけてくるシズカに、ブラウはわずかに苦笑。
「何です?」
「仕事終わったら壺屋行こうよ」
 壺屋とは、町外れにある料理屋の名前で、安くて美味くて量が多い、ブラウやシズカのような薄給取りにはありがたい店である。だが・・・
「一昨日行ったばかりじゃないですか。また飲みたいんですか?」
「軽くね。かるーく」
 彼女の「軽く飲む」は言葉通り受け取ってはいけない。本気で飲む気になれば、一升瓶が3本空になるのだ。
「僕は遠慮しておきますよ。手持ちにあまり余裕ありませんし」
「じゃあ、くろがねに奢らせようよ」
 ブラウは苦笑するしかない。
「それは彼に悪いでしょう。それに、今日はあまり飲みたい気分ではありませんし」
「あっそう。じゃーいいよー、だ」
 子供のような態度でシズカは職員室を出て行く。ブラウの中では、彼女が教師をしているのが世界の七不思議の一つに数えられていたりする。

 残っていた細々とした仕事を片付けると、すでに外は暗くなっていた。
 帰り支度をして校舎から出ると、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
 自分と同じくらいの背丈。手には棒状のものを持っている。
 近づくにつれてはっきりとする姿に、ブラウは驚きの声を上げる。
「兄さん!?」
「ふむ。ちょうどよかったな」
 杖を手にしたその男−ゾフォルトは僅かに微笑む。
「どうしたんですか、珍しい」
「休暇が取れたのでな。途中で余計な仕事ができてしまったが・・・」
 ゾフォルトは僅かに口元を歪めた。
「ああ、神無の武装船と一戦やらかしたってのは兄さんですか」
 ブラウは苦笑。まさか武装船と戦った二人と言うのが、どちらも自分の身近な人物とは。
「立ち話もなんでうから、うちに行きましょうか」
 ブラウが歩き出すと、速天はそれを止める。
「飲みに行くぞ」
「え?」
 ゾフォルトはブラウの家とは逆方向に歩き始める。その方向にある酒の飲める店と言えば・・・
「壺屋ですか・・・」
「不満か?」
 ブラウは兄の問いかけに否定で答えつつ、心中では、今日は何とも壺屋に縁のある日らしい、と苦笑した。

 壺屋の店内はいつも通り混んでいた。客たちの明るい話し声や笑い声。席はカウンターしか空いていないようだ。
 カウンターに向かって座り、ビールと料理をいくつか注文する。その中でもくろがねの育てた豚肉を使った角煮ははずせない。
 すぐに出てきたビールで、まずは乾杯する。
「何年ぶりですかね。兄さんと二人で飲むの」
「お前がこの島に戻ると決めた日以来・・・もう六年になる」
 ブラウはビールを喉に流し込み、一息吐く。
「もう六年、ですか・・・」
「そうだ。もう六年だ」
 沈黙。同時に、店内の喧騒が一気に遠のく感覚。
 カウンター越しに店主が料理を差し出したことで、ブラウの感覚は現実に引き戻される。
「過去を振り返るのもいいが、こだわり過ぎるな。囚われるぞ」
 いつの間にか、ゾフォルトの手にはジョッキの換わりに杯。飲んでいるものも清酒に変わっている。
「はい・・・。今の僕はこの島の教師。それ以上でも以下でもない・・・」
 自分に言い聞かせるように言葉を吐き、やや気の抜けたビールを一気に煽る。
「そうだ。お前は未来を育てる。過去を屠るのは、私たちの役目だ」
 ゾフォルトは空の杯を差し出した。ブラウはそれを受け取り、兄の酌を受ける。
「仕事はどうなんだ? お前のことだから、どこでもそれなりに上手くできるとは思うが」
 ブラウの顔に浮かぶ表情は、自嘲を含んだ苦笑。
「ついこの間、生徒が一人学校をやめました。僕は何もしてあげられなかった」
「ふむ・・・」
 ゾフォルトは僅かに何かを考える表情をする。
「今、その生徒は学校を辞めて何をしているんだ?」
「畑仕事の手伝いをしているようです」
「なら、問題ない」
 断言。それに対して何かを言おうとするが、言葉が上手くまとまらない。
「その生徒・・・もう生徒ではないか。その子には学校という環境は合わなかったのだろう。別の環境で生活しているのなら、問題ない。お前が何もしてやれなかったと悔やむ気持ちは理解できるが、後悔に意味はない」
 それは正論だ。しかし、気持ちは納得していない。
「他人にしてやれることなど、たかが知れている。我々は肉体に神を宿してはいても、神ではないのだから」
 ゾフォルトの言葉は、ブラウの無力感に追い討ちをかけるように紡がれる。しかし、何故か嫌ではない、不思議な感覚だ。
「要するに、お前は一人で気負いすぎだ。もう少し力を抜いて考えろ。さっきも言ったが、『囚われる』ぞ」
 ゾフォルトは杯を煽った。徳利が空になっていることに気付くと、もう一本注文する。
「一人で何でもやろうとは思わないことだ。そんなことは不可能なのだから」
 新たに運ばれてきた徳利を差し出し、ゾフォルトは僅かに微笑む。
「お前の周りには、信頼できる仲間たちがいるのだろう? 彼らに頼ることは恥ではない」
「そう・・・ですね」
 兄の酌を受け、一口。今度は兄に酌をする。
 ふと見れば、自分たちの前には料理がほとんど手付かずで残っている。ブラウが手を付けなかっただけでなく、ゾフォルトもほとんど箸をつけていない。
「料理、冷めてしまいましたね」
「全く。お前が不必要に物事を深刻に考える所為だ」
 そうなのだろうか、と冷たい焼き鳥を食べながら思う。
「兄さんには気遣いさせてばかりですね」
「沈んだ表情の人間と一緒では、酒も料理も楽しめない。それだけのことだ」
 ブラウが表情を和らげたのも束の間。店の奥の座敷から出てきた一人の客の姿にその表情が苦笑に変わる。
 シズカ。ふらふらとブラウの傍までたどり着き、彼の体に抱き付く。
「あはー。やっぱりブラウだぁ〜」
 シズカの言葉はすでにろれつが怪しい。
「奥に来て一緒に飲もうよ〜。くろがねとしろがねも一緒だよ〜」
 シズカは、そこでゾフォルトの存在に気付き、不必要に深々と頭を下げる。
「どうも、ぞふぉるとさん。お久しぶりです〜」
 ゾフォルトは苦笑。
「相変わらず元気そうだな」
 ゾフォルトの言葉はシズカの耳には入っていない。彼女はブラウの腕を引っ張って席を立たせようとしている。
「久しぶりに兄さんと飲んでるんですから、そっとして置いてくださいよ・・・」
「それなら、ぞふぉるとさんも一緒に来ればいいじゃん。みんなで飲んだ方が楽しいよ〜」
 ゾフォルトはさらに苦笑。
「いや、私はこの辺で失礼させてもらう」
「帰っちゃうんですか〜?」
 速天は店員に会計を頼み、席を立つ。
「明日、朝の船で帰らねばならんのだ。すまんな」
 財布をしまいながら、ゾフォルトはブラウに向かって言葉を向ける。
「今日言ったこと、忘れるなよ」
 腕に絡み付いてくるシズカを押し留めながら、ブラウも立ち上がる。
「ええ。ありがとうございます」
「では、またな」
 ゾフォルトが店を出て行くと、シズカは待っていたとばかりにブラウを奥座敷に引っ張る。
「はいはい、わかりましたよ」
 ブラウは苦笑しながらシズカに引っ張られていく。
 ま、こういうのもいいかな、などと考えながら。


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